15-098:夢か現(うつつ)か-29 【俳優】グレゴリーペック(その3)・一日の重み・ローマの休日より

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夢か現(うつつ)か-29 【俳優】グレゴリーペック(その3)・一日の重み・ローマの休日より

 

 

【2015年前書き】
①超有名人が、突然、テレビから私に話しかけてきたように思えたことが何度かあった。特に、死の一、二年前にそうしたことがあったときは印象深く残っている。マザーテレサ然(しか)り、今回紹介中のグレゴリーペック然りである。
②ペックが突然、登場した原因は、前回と今回紹介しているプリントが原因と思われる。
③ペック(2)と今回のペック(3)で紹介している原稿は岡山短大視聴覚教材用プリント(1997年1月9日作成)である。誤字脱字以外は修正せずに、そのまま掲載する。
④今回の原稿は諸事情で掲載意欲がなくなっていた。しかし、予告していた関係と、上記①~②の関係と、夢か現(うつつ)かシリーズ第一弾終了(残りはトムクルーズと室伏君)を急いでいるため、全文を掲載することにした。

 

⑤オバマ大統領へのメッセージで、彼に「ペックが演じたローマの休日(Roman Holiday ・1953年)での ジョー・ブラッドレー役ではなく、アラバマ物語(To kill a Mockingbird ・1962年)でのアティカス・フィンチ 役を今後は望む」と記したことがあるため、尚更、ローマの休日の部分も掲載することにした。
簡単に言えば、オバマ大統領はハンサム(ダンディ)で、賢明で、人情味もあり、何よりもユーモアがある。まさに、ジョー・ブラッドレーである。だが、私は彼の残りの任期ではアティカス・フィンチ役を期待している。
余談ながら、2015年後半に、オバマ大統領が歌う「Amazing Grace」を聴いた。大変面白く、即、私のHPに掲載しようかと思った。しかし、それで彼の支持率が落ちた場合を懸念して、掲載を断念したことがある(逆に支持率が大きくあがったかもしれないが賭けが大きすぎたため掲載を断念した)。現在、掲載しているオバマ大統領が歌う「Amazing Grace」は私が聴いたときの修正版である。これならば、世界でのオバマ支持率にプラスにもマイナスにも大きな影響を与えないと判断して掲載をしている。

 

⑥公式HPで紹介していた、ペック(1)のリンクミスは今回修正した。また、ペック(1)や(2)で紹介している動画関係は掲載終了となっている。

では、1997年掲載した本文をペック(2)に続き、そのまま掲載する。ただし、SNSに掲載時には、長いため幾つかに分割をしている。

 

 

《◆『ローマの休日』》      
最近、訳があり、何かに付けて、映画監督・山田洋次氏に対し批判も含めて思うことがある。彼はこの「ローマの休日」について、「あんな甘ったるい恋愛映画の、どこがいいの」(*5)かと思ったことがある、と記していた。不思議にもこの一点のみ、彼と同様の感じを受けている。もっとも、山田氏は後の方で、このローマの休日の映画技法などを評価しているが、それらは大学の一般教養の英語教材とは無縁の次元のことである。
では、何故(なぜ)、私がこの映画を教材化するのか。先に断っておくが、「ローマの休日」は後に大幅手直しをし、完全な教材にしてゆくが、そのときの教材はもはや私の作品でもある。映画本来の中心点はもはや変化しているかもしれない。それは、あたかも原作小説とそれを土台にして完成した映画作品との違いの如(ごと)きものである。
それでは、「ローマの休日」を教材化するに当たり、何をテーマとするのか。山田洋次氏が書いた「甘ったるい」ような恋愛を教材のテーマとする気は毛頭ない。私が「ローマの休日」でテーマとするのものは二点ある。

 

一つは、先のアメリカ型の“愛”である。「アラバマ物語」ほどではないとしても、やはり、こうしたアメリカの心としての“愛”がある。正確には古き懐かしきのアメリカの土台をなす“愛”である。この映画の中には、王女と新聞記者の“愛”というよりも、正確には“情のある愛”があり、同時に、新聞記者と友人カメラマンの間にもアメリカ型の友への、照れたというか粋なというか、そうした愛がある。
尚(なお)、これらは、最近のアメリカの大作の中では影を潜めつつあるものの、「アラバマ物語」、「ローマの休日」(*7: p46)、「ホワイトクリスマス」や最近ではディズニーアニメの「アラジン」の中にさえ現れてくる。こうした、古き懐かしきのアメリカの心、即ちアメリカの土台をなす精神を知る上で、「ローマの休日」の教材化を思い立った理由の一つがある。
尚、この映画とアメリカ映画史若しくはアメリカ史、特にレッドパージとの関係、それに原作者が本当は「ジョニーは戦場へ行った」のダルトン・トランボ(*6)であったということなどは、授業の際に必要性や気が向けば話そう。余りこうしたことに触れすぎると、純粋に映画を受け入れる心を損なう危険があるためここでは書かない。

二つ目は、この映画に、私はもう一つの大きなテーマを見いだしていることである。それは“one day”即ち“一日”の重みである。これは次に書くように、この映画で十分強調できるのではないかと考えている。

 

(※注)山田洋次氏がこの映画を、「甘ったるい」と言ったが、山田氏の最近の作品は、いつのまにか、かつての義理・人情など古き懐かしきの日本の心から、この甘ったるいような映画へと本人の知らぬうちに本質は移っているように思われる。
表向きは同じようでも本質の問題である。あたかも芸術家からサラリーマン監督への移行の如(ごと)くである。特に晩年の「男はつらいよ」が、「ローマの休日」とは格が違うが、その見本である。本人もこれは分かっているであろう。初期の「男はつらいよ」と晩年の「男はつらいよ」では質も違うし、本質的に連続性はない。興味があれば、「男はつらいよ」シリーズ第1話から最終作まで見てみれば誰でも分かる。私は全作品を平均すれば約3回見た上で言っている。よく見た巻はもっと見ている。平均の話で3回である。

 

 

《◆『ローマの休日』と“one day”の重み》
長くも、短くもある人間の一生は、一日、一日の積み重ねである。この一日は、時には長い一日もあり、時には短い一日もある。時には壮大なドラマが展開し100年の歳月を一日で感じるような日もあれば、逆に全く“無”でしかない一日もある。一日の重み、そしてどう一日を計画するか、それを考えてもらいたいのが、この映画のもう一つの大きなテーマである。

かつて、映画監督の巨匠・黒沢明氏は「生きる」(*8)という映画を作った。ある役場で、毎日平凡に過ごしていた人間があるときガンと告げられ、しかも余命いくばくもないと知り、自分がどうこれから生き続けるかを考え、享楽を含め様々な体験をしてみる。
だが、何も解答を見つけられない。やがて、彼は公園を作ることを思い立ち、それに一生を掛けることにする。ここで、彼は生きる目的を生まれて初めて持つことになる。彼の目が変わる。
無のよう長い一生か、太く短い一生か?ともかく、この「生きる」という映画の発想は、諸君らが高校の倫理で学習した実存主義や、あるいは日本史に登場する一休宗純(俗に言う一休さん)などにもみられた、死をあたかも一年後に訪れる如く意識し、今日一日一日を充実するようにし、無のような一日から意味のある一日へという発想である。

 

だが、私は「ローマの休日」の中に、逆の発想から一日の重要性を見たのである。即ち、同じ一日でもこうも違うのか!ということである。ローマの休日の一日を見て考えてもらいたい。何もなく無のような一日、逆に楽しすぎてあっという間の一日、単調な仕事に追われ一分のような一日、病気などで苦しみ地獄のような長い一日、楽しいにもかかわらず長い一日、しかも後にその日をさらに長く感じるようになる一日、まだまだ一日はあるであろう。
勿論、偶然でしか味わえないすばらしい一日は余りにも多い。しかし、一定準備し、自覚し、味わえる一日もあるはずである。また、偶然のすばらしい一日を受け入れる態勢は、その準備があるにこしたことはない。ともかく、一年後に死ぬと考えて、逆算して一日一日を生きようと考えるのも悪くないが、空論で終わりがちである。それに対して、逆にこれほどすばらしい一日があると知り、一年のうち、一月のうち、時には一週間のうち、何日かをそうなるよう努力していくことも重要ではあるまいか。

 

すばらしい一日のうち、幾つかは、偶然に委ねるのみではなく、意図的に作り出すことのできるものもあろう。この“一日の重み”、これをこの映画のもう一つのテーマとする。それらには、恋愛中のデートの一日、友情の絆(きずな)の一日、クラブなどスポーツの試合の中での忘れられない一日、家族でのささやかであっても楽しい一日、時には研究会での一日、男女を問わずすばらしい人に出会うことになった一日、……まだまだあろう。私も含め、今までを振り返り、どの一日が良かったかを思いだし、そうした日を計画的に作り出すよう努力することも意味のあることではなかろうか。ここに、この映画での“一日の重み”というものをテーマとする。

 

《◆今後の教材-美しき世界へ》
今まで多くの教材に、平和・民主主義・人権を問うため、戦争の悲惨さや、差別の卑劣さなどを教材に取り上げていた。だが、それでは表面的な効果しかなかった。やがて、教材の中心は、映画「野麦峠」の中に見る、美しき兄妹愛など、美しき世界から平和・民主主義・人権を問うようになっていった。
そして、英語の視聴覚教材の第Ⅱ部映画&ドキュメントと第Ⅲ部美しき世界では、文字通り、あらゆる“美”というものから教材を作成していくことになる。そのためにも、私が今後一層教材の材料探しと思考を積み重ねていかなければならない。特に英語では、アメリカの心、とりわけ古き懐かしきのアメリカの心、その典型としての“愛”、家族・仲間、広い意味でのThe family circleへの愛に関する教材を集めなければならない。同時に、それ以外の〝美しきアメリカの心〟を探し回らなければならない。そして、これらを教材にし、授業で紹介することが一般教養の英語授業の使命でもある。
英会話ですら、こうしたものを土台として成り立たなければならない。人間関係の上部構造に該当する、語学力の十分な習得などは、大学の一般教養の語学時間数から言っても、一般教養という授業の性格から考えても本質的な事項ではない。また、本来の学問の府(最高学府)としての大学教育の使命の本質でもない。それらは、TV・サークル・専門学校・語学学校、せいぜい大学の英語専門学部等、そうした場を利用し収得すべき技術若しくは道具でしかない。
こうした訳で、アメリカのみならず、イギリス、オーストラリア、シンガポールなどの英語圏はもとより、世界各国の、それぞれの国の“心”とそれぞれの国の“美しき世界”を求めて教材作成をしてゆくことになる。これらの教材化は、一連の視聴覚教材第Ⅰ部HEARING入門などとは、比較にならぬ膨大な時間・経費・労力を必要とすることになる。
先の平和と民主主義について言えば、強風ではマントを一時しか脱がすことはできない。しかし、暖かい日々は人々のマントを永久に脱がすことができる。美しき世界に関する一群の教材化の目的がここにある。しかし、政経を始め社会科を土台とする、私の教材の展開の仕方は、従来のこうしたことを目的とした児童文学者などとは大きく異なる面がある。教材「野麦峠」(*9)で見た美しき兄妹愛の中の、美は悲しみの中にあるや、いずれ行う「アラバマ物語」の浜田型教材でそれらは展開されることになる。

 

教材「ローマの休日」全体の脚注】
→紙面の都合で、(2)のシナリオ及び(3)の英文シナリオも含め、この教材全体の脚注をここに記す。

(*1)『アラバマ物語』1962年ユニヴァーサル映画 (「 TO KILL A MOCKINGBIRD」)。
原作→ハーパー・リー、監督→ロバートマリガン、出演→グレゴリー・ペック→ビクターよりビデオがでています
(*2) Harper Lee, TO KILL A MOCKINGBIRD, WARNER BOOKS, 1960
(*3)『ローマの休日』1953年パラマウント映画 (「 ROMAN HOLIDAY」)
原作→アイアム・M・ハンター、監督→ウィリアム・ワイラー、出演→グレゴリー・ペック、オードリー・ヘップバーン→ビクターよりビデオがでています
(*4)小藤田千栄子編集『シネマアルバム57・グレゴリーペック』(芳賀書店)、1977年
(*5)「長銀ロングセラー物語・永遠ローマの休日旅行」(長期信用銀行)
→上記パンフレットの中の山田洋次氏書評「最後の5分間には映画のすべてがある」
(*6)吉村英夫『ローマの休日:ワイラーとヘップバーン』(朝日文庫)、1994年→p163あたり参照のこと
(*7) ROBYN KARNE, A STAR DANCED: THE LI→E O→ AUDREY HEPBURN, BLOOMSBURY, 1993
(*8)映画『生きる』1952年東宝映画
脚本→黒沢明、橋本忍、小国英雄。監督→黒沢明、出演→志村喬→東宝よりビデオが出ています。
(*9)拙著→岡山短大後期教材『旅に心を求めて』の中の3章「旅は人なり、野麦峠での思い出」参照。また、関連→拙著「THE REVERENCE OF LIFE」(政経教材1995年)
(*10)1995年4月7日、岡山天満屋「ヘップバーン展」にて購入の絵葉書
(*11)発行者吉村規子『cine-script book:ローマの休日』(マガジンハウス)、1992年
 

 

 

《1997年追記:1997/1/9》の省略箇所(岡短などに未提出部分)

ただし、タイの如く訳の分からぬ妨害があれば、教材のための、受け入れる心が壊され、ローマ行きは逆効果にさえなりかねないという危惧もある。借金とはいえ、自分の金で行くにもかかわらず、こうした不安がある。
(通常は信じられないが、悪魔で仮定として)誰かが私を題材にし映画か何かを作っているとしよう。その作品を仮にAとする。私がローマ等で作ろうとする教材をBとする。AのためにBが犠牲にされるのは筋が通らない。そればかりか、Aの作品が私の考えと相容(い)れないものならば尚更ローマ行きに懸念を抱く。
拷問とかトラブルとかで人を引きつけるのは邪道であり、私のPOLICYとも生き方とも相反するばかりか、その被害は甚大なるものがある。そして、Aはこれら邪道とママゴト的ドタバタのみのようなもので構成されているような気がしてならない。しかも、本来の条件の下で、私が全力を込め、教材作りのみという片肺ではなく、全面的講義の展開という形で作品Bをつくったとき、Aから邪道という要素を抜いたときにはどちらの作品が、私の本来教えるべき学生にとって優れているか、という疑問すらある。
しかも、本来ならば、私の授業の核心は、何度も言う「老婆が自分の愛する孫のために懸命に心を込め作る人形のようなものである」。これと似たものを大量生産でつくることが簡単であっても、人の心を動かすことはない。それが授業の生命である。しかも本来の条件の下で、私がBという作品をつくるのと、Aという作品ではどちらの価値が高いかという疑問すらある。もっとも、Aのため私のBは常に犠牲にされ、Bはその全貌を現したことがないため、一般の人には理解できないかもしれない。
だが、本来自分の金で行くなら、AのためBをタイ旅行の如(ごと)き犠牲にされるのは犯罪行為ですらある。ましてやトラブルと残虐さを除けばAはいかほどの価値あるものであろうか。そして、そうした邪道に人は確実に興味を持つとしても邪道であり、非人道的なものにすぎない。しかも、私の生き方とは相容(い)れないものでもある。欧州には欧州の心の手掛かりを探すのを中心に出かけるものであり、タイ旅行の二の舞も、心の澄んでない人間に出会うために行くのでもない。欧州旅行に必要なもの、“無”の心と“澄んだ心”そして何より頑強な体、これらが整ったときに旅立つことになる。そして、私の授業のための旅は常に“求道の精神”状態であり、“求め続ける”旅でなければならない。

 

※(2008年追記)。この1997年追記は、精神の疲弊と、信じられない労働条件の中で記した物である。依(よ)って、学生諸君が読めば、不自然に感じるであろう。だが、1997年のあらゆる角度からの記録として、当面削除せず、そのまま掲載しておく。ただし、友人の労働基準監督官・弁護士・(公職の)知人等に、その都度報告しているが、余りに不自然な事件が続発したことは事実であった。詳細は拙著『閉じた窓にも日は昇る』にまとめ、出鱈目(でたらめ)な状況におかれていたことは没価値的に分析した社会科学文献でもある、拙著『親方日の丸』を読めば分かるであろう。両文献ともに出版の方法を検討している所である。
※(2015年12月追記)。後者は2015年Amazonから電子書籍(Kindle版)で出版。前者も出版検討中。なお、文中のローマを含む1997年末~1998年予定していた、欧州の旅は上記の事情で中止した。