徒然なるままに№4・美人のイドラ―今の美人は西洋からマインドコントロールされた虚構?。

  徒然(つれづれ)なるままに№4・美人のイドラ―今の美人は西洋からマインドコントロールされた虚構?


 美人とはいかなるものぞや。

人間は生まれた瞬間から、美人なるものを知覚できる感覚を持っているのであろうか。私ははっきりとノーという。美人とは、学校の授業の如(ごと)く、押しつけられた観念である、と。


政経の世界№6に記した、私の事例を再度記そう。
《私が高校のときに、この人は美人だと思っていたAさんがいた。すると、友人が何人もきて、「Aさん、あれは美人ではない。いいかい、美人とはBさん、Cさんを言うのだ。しっかりしろ!」と。では、友人たちがBさん、Cさんを美人と考えた根拠は何か。映画・テレビ・雑誌・絵画などで、「美人はこれだ」というイメージをたたき込まれたせいではなかろうか。》

実際、日本の美人像は西欧文化が押し寄せるまで、現在の美人像とは違っていた。下記イラストや絵画が昔の美人であった
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即ち、日本の美人は平安時代頃までは、一重まぶたで、ふっくらしており(小太りであり)、今で言うおかめや阿多福(おたふく)の面に似た顔に近い女性であった。極論すれば、上記イラストの如(ごと)くである。
(イラストの方は著作権フリーのいらすとやさんから拝借)。


もう少しまともにしても、高松塚古墳壁画のようなタイプである。これが日本の美人であった。実際、某HPには「日本語の世界に『お多福』の一語があって、日本的女性美の極致を表現している」と記されていた。

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これに関して、拙著政経の世界№6を引用する。
《今はこれらは美人とは逆のタイプに分類されるかもしれない。おたふくとは英語では a plain [《米》 homely] woman. 〈醜い女〉となっている。しかし、それは西洋文明が日本に押し寄せ、美人とはこういうものだと何度も押しつけられたものにすぎない。映画で、外国の雑誌で、外国のテレビで。美男・美女は歴史的に、つくりあげられた物であるかもしれない。少なくとも日本では西洋文明の訪れとともに美人の概念が変わった。》

中国の四大美人の一人・ 王昭君(おう しょうくん、紀元前1世紀ごろ)の肖像画をウィキペディアから引用した。やはり西洋が言う美人とは異なっている。
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【私の提案】
私は今回、西欧文明が到達する以前の、日本の美人像のサンプルを少し掲載した。こうしたらどうだろうか。西欧文明が到来するまで、どのような顔を美人といっていたかに興味ある人は、世界各地で、HPに各国の昔の美人像を掲載してもらえないだろうか。
タイ山岳民族の村にいったときも、ここで言う美人とは誰か、というクイズ方式の問いがあった。その美人は西洋型美人とは異なっていた

だから、同じく政経の世界№6に記した事項が当てはまる可能性が高い。
《もし、生まれてずっと隔離されていた人が、人間社会にでてきて、何人もの異性を見せられて、どの人が一番美人かと尋ねられたならば、世間一般でいう美人とは違う可能性が高い。》

美人とは、学校の授業同様に押しつけられた物でしかない。それは、戦前日本で「鬼畜米英」と学校で押しつけられたのと同様ではなかろうか。容姿に限定しても、今一度、西洋文化が押し寄せるまで、どんな人を美人といっていたか、公にしてみたらどうだろうか。

ただし、容姿ではなく、中身ですばらしい人という方はかなり昔から一貫性があるように思われる。その根拠は世界の民話を読めば分かる。私が知っている範囲では、「心の優しい人・親切な人」などは昔からの共通点がかなりある。
だが美人については、経済学でいうデモンストレーション効果同様に、作り上げられた物としか思えない。同様に、俗に言う「優秀な人」なる概念も、今日の毒饅頭(まんじゅう)教育を売り物にした学校で作り上げられたものにすぎない可能性が高い。
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美人が良いとは言っていないが、それでも「美人」なるイメージは、マスコミなどで主導権を握った人が、そのイメージを何度も強調して、全世界の人をマインドコントロールしている疑惑がたかい。
美人絶対主義ではないが、最低限、他人が押しつけたステレオタイプの美人像を破壊する必要があるのではなかろうか。
 美人のイドラを追求することは、多くのマインドコントロールを暴くことに繋(つな)がるであろう。同時にマインドコントロールの怖さを思い知るであろう。