Google+などで公開中フォット・エッセイ『戦争と平和と人間に想う』追記。

『戦争と平和と人間に想う』第1話に登場する「教師と子どもの碑」を撮影し、拙著「生命への畏敬(Reverence for Life)」4章「戦争と平和と人間に想う」の中で原爆投下を批判した(1994年)。すると、その直後にアメリカでの原爆展開催(スミソニアン展)への大論議がアメリカで起こった(1995年)。

同時に、この原稿の一部を拙著『旅に心を求めて―教材編』第13章に引用し、新しい原稿を記した。タイトルは「教師と子の像の前に立ち尽くす―授業を求め広島へ」(見出しは「一枚の写真を求め『原爆の子の像」を訪ねた広島への旅』)である。1995年夏頃だと思う。
この教材の中で韓国原爆犠牲者慰霊碑だけが、なぜ平和公園の外にあるのか、と記していた。そして、その教材を授業で1998年1月迄(まで)使用し続けていた。1999年7月21日に、韓国原爆犠牲者慰霊碑平和公園内に移転される。勿論(もちろん)、平和公園内への移転を望む声は方々(ほうぼう)から出ていたであろう。だから、私の原稿とは無関係と思いたい。

だが、先の原稿の中で、「原爆の子の像」に何かを求めていったのであるが、「教師と子どもの碑」に強い印象を受けたと記していた。すると、2003年に「原爆の子の像」付近の折り鶴が燃やされる事件が起こった。火をつけたのは、私の母校(関学と早大)の一つ、関学の学生であった。これも偶然と思いたい。

さらに、この文章を記した後で、次の問題への回答を迫られてもいた。原爆投下により、日本の植民地被害に遭(あ)った国の人々や、米国軍人数百万人もの命を救ったのだ、と。だから、あなた(私)の文章はおかしい、と。ようするに、原爆犠牲者と日本の侵略戦争被害者との命の天秤問題への回答・解答を求められた。

それへの回答への道を記した書物が『生命への畏敬』の中の「地方自治の精神」と「戦争と平和と人間に想う」の箇所であった(1996~2008年にかけて作成)。特に2000年頃、『命の重み』を強調するため、『生命への畏敬』の中で日本の百姓一揆(いっき)の事例をだした。百姓一揆はTVや映画とは実像は異なり、相手の命ではなく、自分の命をかけていた、と記した。

相手が死ねば勝ち、自分が負ければ自分が死亡するのではなく、勝っても負けても失うのは自分の命であったことを、史実に基づき記した。すると、それへの返答の如く、アメリカで9・11事件(自爆テロ)が起こった(2011年)。

そこで、再度、私の見解と自爆テロは違うことなどを含めて、『旅に心を求めて・不条理編』として、これらの問題を総括した。しかし、幾つかの出版社へ送付したものの、どこの出版社も出版にも応じなかった。懸賞論文からも見放された。だが、この原稿を読んだ人はほぼ全員が賞賛してくれた。だから、うぬぼれではなく、誰かの妨害としか思えなかった。こうした長い経緯を経て、本年1月30日に『旅に心を求めて・不条理編(上)』として、Kindleから発売されることになった。この本を読んでもらえれば、何か分かると思う。

同時に、この本は、世界の平和と安寧(あんねい)に寄与する内容であると考えている。 なお、『旅に心を求めて・不条理編(上)』と写真物語・和の間掲載の『戦争と平和と人間に想う』、本質は同じであるが別本(内容)である。後者もいつか完全に作品化して、世に問うことを望んでいる。
ともかく、広島を巡る両方の作品は共に、一枚の写真・「教師と子どもの碑」から始まっていた。

同時に、スミソニアン原爆展、韓国原爆犠牲者慰霊碑、原爆の子の折り鶴問題、9・11事件、と私の原稿、これらの関係は全て偶然であろうか、と疑問に思うほど時期が符合していた。おまけに、原爆以外でも万事が万事こうなのだから。

2015年1月20日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA