great peace of mindにAはいるか→A great peace of mindかそれとも……。

A great peace of mindかgreat peace of mindか。

(注)2015年7月4日掲載の簡易Blogと公式Blogと同一です。都合で両方に収録しただけです。

 
私のキャッチフレーズを「The messenger for a great peace of mind」としていた。そして、本日、暑中見舞いに上記メッセージを添えていた。
ところが、mindは抽象名詞、peaceも抽象名詞である。正確には〝一般〟に抽象名詞である。

最近、自棄のやけの勘八(a sense of desperation)の私は、本日はアルコールのせいで、次の如くのたもうた。{自棄[ヤケ]の勘八[ヤンパチ]}

「英語、そんなもの、何を書いたって正解だよ。全て例外があるため、全部正解なんだ。意味もしくはニュアンスが違うだけなんだよ、と。日本語の読点と一緒だよ。何だっていいんだ。ルールなんて実はないんだよ。勘違いされずに、かつ読みにくくなければ読点なんてどうでもよいんだ!英作も同じだ」、と。焼酎四分の一合しか飲んでいないのに、実に品が悪い。

 

さて、解答ならぬ回答を記す。本当にどちらでも良いのでは。
Peaceは一般に不可算名詞である。例外は平和条約などで使用するときは可算名詞に変わる。mindは可算名詞か不可算名詞かはケースバイケース。peace of mindだけの場合はa抜きが「安らぎ」をより表現するが、これとてaを使用する事例も多い。
 更に、A greatをワンセットにして強調類フレーズのと考えれば、不可算の前にA Greatを使用しても問題ない。ちなみに、インタネットで調べると日本の歌のCDで「A great peace of mind」という曲があった。

ちなみに、マーク・ピーターセンが『日本人の英語』(岩波新書、1988)の中で書いていた。鶏(chicken)を食べるという場合は不可算でaは不用と言うけれども、aがあってもかまわない。ただし、ニュアンスが違うだけなんだ、と。aがあると、鶏を丸ごと食べるという雰囲気になるだけなんだよ、と。
 英語は人工言語ではなく、自然言語のため、例外の例外の例外の例外……とあり、何を書いても本当に正解なのである。ただし雰囲気が違うだけなのである。

では、どうしたらよいのか。「習うより慣れよ」(Practice makes perfect)しかないであろう。雰囲気、Feelingに。そういうことを気にするあなたは「chicken」だ。You are chicken.(訳は自分で考えて)。
ちなみに、私は鶏が食べられない。アメリカへの道中でエアカナダの飛行機中で、a flight attendantの方が、食事ときに「kitchen」と言っているのか「chicken」と言っているのか不明のため(若しくは判読不可能のように言われたため)「No, thank you.」の連続であった。

なお、今、拙著『親方日の丸』の原稿を修正しているが、読点の打ち方で参った。国語音痴が私が日本語を正確にと考え出したのは、2008年『閉じた窓にも日は昇る』を記すときであった。それ以降は比較的文章にも気を配っているが、それ以前はそうではなかった。「社会科学などは、美文がよいのか、それとも癌(がん)の特効薬の発表時と同様に、美文以上に人に役立つことが良いのか」、「丁寧に文章を装飾すれば、多大な時間がかかる。誤解ないように、かつ読みやすいように記した後は、次の作品に向かうべきである。不必要な装飾は小説・紀行文だけで十分だ」、と。
ただ、2008年に『閉じた窓にも日は昇る』を記してから、多少、日本語で鍛えられた。しかし、それ以前の作品は先の観点から記している。だから、この本以前に記した『親方日の丸』の修正をしていると、当時の読点の打ち方が雑であり、修正に頭を痛めているところである(もっとも修正しなくても、意味は通じるし、誤解を引き起こすことがないのであるが)。他方、この本・『閉じた窓にも日は昇る』の後で修正・提出した『旅に心を求めて―不条理編』は修正は楽であった。特に『旅に心を求めて―不条理編・上』(美は悲しみの中にあり)の方は特に楽であった。
もっとも『旅に心を求めて』シリーズは多少美文らしき物が要求されるが、『親方日の丸』の方はピロリ菌の発見と同じ、科学的研究書のため、不必要な装いは無駄とは今でも思っている。

 

 

作文については、英語・日本語ともに言いたいことは山ほどあるが、もう午前4時前のため、本日はここまでとする。いずれ、「夢か現(うつつ)か」シリーズの後で「徒然(つれづれ)なるままに」シリーズで、自棄[ヤケ]の勘八[ヤンパチ]で様々なことを記すことにする。

 

ただ、それでも三言記す。
リンカーンがゲチスバークの演説を記したときの下書き類を見たが、リンカーンも「the」をつけたり、逆に消したり、「A」も同様で迷っていた跡があった。それを一々気にしていたら、人生は終わりだよ。
二番目に、私が教育について言いたいことを凝縮した歌を最後に掲載する。
三番目は、本日家で酒を飲んだと書いた。酒は飲んでいない。焼酎である。それも四分の一合程度である。それも、家で飲むのはこの二年間では二回目程度である。共に、この程度の分量である。何故(なぜ)小さいことを記すか。それは、我が姉が読んでいるかもしれないからである。63歳を前にして、「ああ、無情」。
やはり、少し酔いが回っているのであろうか。
本日の文章は全く下書きなしの殴り書き。
「毒饅頭(まんじゅう)教育批判―現代イドラ・偏差値」の批判は下書きを書いてまともに書く予定である。

二番目の歌は高石ともや「受験生ブルース」です。